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看護師になったところで、大事な人の死には一度たりとも立ち会えていない男。

仕事のコト
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中学生の時に祖父の入院や死を目の当たりにし、高校生の時に色々なコトを鑑みた結果、将来の夢というか、将来の生業として候補に挙がったのは看護師でした。

当時はただ

  • スーツを着てビルに吸い込まれる人種になりたくなかった
  • 人を直接助けられる仕事がしたい。
  • 祖父を亡くした時の無力感を味わいたくない。
  • 親の負担にならないようさっさと働きたい。

などと考えていました。

今では私服で病院に吸い込まれる人種ですが、病める方々を助けることでお金がもらえて、少々早い段階で社会にでることができ、収入も安定しています。

親にも色々と恩返しできていますし、色々な取捨選択を経て看護師を選んだ当時の自分を、熱く抱きしめてあげたい

それはともかく、無事に看護師になってから1年目で病んだり、看護研究で胃潰瘍になるなどの紆余曲折を経ていると、いつの間にか看護師歴10年目が見えてくるようになりました。

看護師1年目、いわゆる新人看護師の時は、こんなクソみたいな仕事辞めてやると本当に思っていました。決して良いとは言えない職場環境(本当にな)と、自分のプライドが拮抗した結果です。「辞めたい」と思いながらも何とか続けられました。今では妻となっている彼女には、今でも感謝しなければなりません。

閑話休題

看護学生から、看護師としてはたらいている約10年の間に、中学の時に祖父で経験した初めての近親者の死、そしてもう一方の祖父・祖母を、割と立て続けに亡くしています。

嫌になっちゃうね。

初めての祖父が亡くなった当時は未だ自分は中学生。ちょうどもう一方の祖父母に会いに行っていた最中の出来事だったこともあり、報せを受け帰ったときにはすでに事切れていました。悲しかったですし、中学生ながらも無力感を味わいました。笑

そしてもう一方の祖父の死は、確か看護師2〜3年目の時。そして祖母の死は、つい昨年のこと。家庭の諸事情だったりコロナ禍だったり、どうにかなりそうで、どうにもならない理由で、どちらの死にも立ち会うことはできず、介抱すらできませんでした。

最初の祖父の死で抱いた「最期の場面には立ち会いたい。」という強い願いとは裏腹に、徐々に家族の死から遠ざかっているという事実が転がっています。

直近の祖母の死には、立ち会うどころか面会すら叶いませんでした。

というか、家族の入院中・死で感じた無力感が嫌で看護師になったはずなのに、入院中もそんなに面会できていないんですよね。

お見舞いに行こうと思えば行けたのだけれど、色々な制約不要かもしれない気遣いのおかげで、自ずと祖父が入院していた病院から足は遠のきました。亡くなる前には面会できたものの、状態的に声をかけたり、擦る程度しかできませんでした。

看護師として働いていれば、お見舞いの家族に対して「声をかけるだけでも、擦るだけでも良いんですよー。」的な発言をするクセして、実際に家族側になってみると無力感半端ねぇです。

社会人になると、やはり誰しも祖父母と会う機会は極端に減っているように思います。特に看護師として働いていると、久々に会った時にはすでに祖父母はベットの上に。なんてこともしばしば。

僕が新人看護師としてひーひー苦労を重ねている最中、祖父母は順当に年齢と通院を重ねていたわけです。

今になって肝に銘じているのは、病床に臥してからでは遅い。元気なうちに会う。ということ。

すでにいなくなってしまった3人にできなかった分、少しでも恩返しができれば。と思います。それはもちろん入院してからも。

せめて君だけは幸せにしてみせるよ。というやつです。

このセリフを言うと、助けようとした相手が良からぬことをしでかしそう。しかし心情としてはいい感じにマッチしています。

まぁやり直しは効かないんですけれどもね。

看護師として働いて培った技術と知識は、患者だけでなく家族のためにこそ発揮したいと考えている、今日このごろです。

まずは発揮するまでの束の間、一緒に旅行をしたり、テレビのBSが映るようにしたり、新しいゲーム機を買ったり、携帯を買ったり。

色々とするべきことは多そう。

ではまた。

こう言える内が華だぞ。と思うのです。

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