とうとう30歳という大台が見えてきまして、心持ちとしては殺生ヒュッテから槍ヶ岳を見ている。といった感じでしょうか。
あと少しだけれど、それなりにきつい道程が待ってイル。
20代も後半に差し掛かり、人生で初めて過度なストレスのおかげで胃炎を患い、この世から去ってしまうのでは。と思うほどの激痛に耐えたり、なかなか腹についた脂肪という蓄えが落ちなかったり。
ちなみに胃炎を患った時の教訓は、胃カメラの時には鎮静剤を使おう。
でした。
日々ひたひたと忍び寄ってくる老いの影を、視界の隅っこに捉えることも珍しくなくなってきました。
とりとめもない、駄文です。
特に老いを感じるようになった「記憶」
アマプラでTranscendenceを見ながら、ジョニー・デップをブラッド・ピットと言い間違えたり、CMに出演する俳優や女優の名が出ず
あのー、あの人だよ。ポン酢のCMに出てる。北海道の。
などと顔は出ているのに名前が出てこない。なぜか関連するエピソードばかり出てくる、幼少期はよくバカにしていた、悲しい現象がみられるようになりました。
老い。ですね。
因みに正解は大泉洋。
個人差はあるにせよ、20歳をピークに減少するとされる脳細胞達。一度減った脳細胞は決して増えることなく、衰退の一途をたどるようです。
芸能人の名前が出てこないことに関しては何ら問題はありません。ただ名前がすんなり想起できなくなった自分の脳の老いが割とショックだったというか、なんというか。
何の根拠もなく、自分は若いままだと思っていたのです。
自分が中高生の時分なんかには、親が「若いタレントはみんな同じに見える。」なんて言っていたけれど、今になると
なるほど、そのとおりだ。
と思うことしきりなのです。
テレビに興味が無くなり、見るのはもっぱらNHKのニュース。というのも一因なのでしょうが・・。
自分も親と同様、テレビに出演する若い連中が、自分の人生に何の影響も与えないと悟ったのでしょう。脳はテレビに出演するタレントの顔と名前を記憶することを放棄したようにも推察されます。
しらんけど。
しかし、何よりも辛いのは、忘れたくない過去の記憶についても割と曖昧になった気がするということ。
転校する前に住んでいた、自然に囲まれた土地であった話や、当時感じていたことが朧気なものになっていることは、自分には割と耐えられない事実です。真夜中に思い出そうとしても思い出せない時は、とんでもなく黒い絶望感が、胸のあたりから湧いて出てきます。
気が狂いそう。
産まれてから10年ほど過ごしたその土地を離れてから、およそ20年という年月が経過していますけれど、今でもあの頃に帰りたくなる程度には、その土地での記憶は大事な思い出なのです。家族全員が揃ったり、揃わなくなったり、色々なことがあったけれど、一番大事な思い出です。
大人になってから、2度ほど帰ったことがあります。
当時とはものの見方も感じ方も違うし、何よりすべてが小さく見える。
自分の世界とはこんなにちっぽけなものだったのか。とノスタルジーに浸りつつ、衰退の一途を辿る地域は今後どうなっていくのだろうか。なんてとりとめもないことを考えながら、とぼとぼと帰るのが、通例になりつつあります。
ただ、自分がこの土地で過ごした時間は間違いなく存在した出来事であり、土地自体はもう大きく変わることは無いだろうという安心感と、−やはりあの時間は返ってこない−という虚無感を抱きながら過ごす日々というのも中々悪くないんだろうと思います。
話が脱線したか。
兎角、思い出せない記憶や当時の感情が増えてきたことだったり、風邪を引いても快復に時間がかかったり、きっと学生の頃に比べると頑なになってきたであろう価値観・固定概念というものに対して、憂いている自分がここ最近は増えてきたのです。
ただ老いるだけでは、きっといけないと思う。
温故知新
というように、過ぎ去ったことは大事に・大切にしながら、新しい知見や価値観に積極的に触れていく必要があるんだと思います。
さもなくば、無駄に年齢を重ねたような彼らのようになってしまう。きっと彼らも大事にしてきた記憶や価値観、ポリシーがあるにせよ、これらが垣間見えることは一切としてありません。いつこうなってしまうのやら。
「老い」というものは誰にでも訪れますし、産まれてから今までもその真っ只中です。
身体の衰えはしょうがないものとして
忘れてしまう記憶があるとして
そんな分かりきっていた事にイチイチくじけず、今の環境や関係性をちゃんと大事にしたい。
そう意志薄弱な自分は思うのです。
「ちゃんと」なんていうと、「具体的には?」なんてツッコミをしたくなるけれど、そんなことは仕事だけで良いか。
写真を撮ろう、思いをしたためよう。
かしこ。